プロフィール

氏名 : 永森 直人(ながもり なおと)
(名前の由来)
「永森」:射水市大江地区に「永森神社」がある。昔は、神社の境内周りに広く樹が繁茂しており、「永森の宮」と呼び親しまれていた。このお宮近くに住みついた一族が、姓を「永森」と名乗ったと伝わっている。
「直人」:当時、TVアニメのタイガーマスクが流行していたらしく、主人公の本名「伊達直人」にちなみ「直人」と名付けられたそうだ。

生年月日 : 昭和50年1月20日(みずがめ座)

血液型 : A型

同居家族 : 妻、長男(大学1年)、次男(高校1年)

【略歴】

小杉幼稚園、小杉小学校、小杉中学校、高岡南高校 卒業後
平成9年3月 東京都立大学経済学部卒業
平成9年4月 富山県庁入庁
ロシア・ウラジオストクへ派遣留学(1年間)、国際・日本海政策課、広報課を経て、高齢福祉課主任として特別養護老人ホームの待機者対策などに取り組んだ。
平成22年9月末 富山県庁退職
平成23年4月 富山県議会議員に初当選(現在3期目)
平成27年4月 富山県議会教育警務委員長(〜29年3月)
自民党富山県連青年局長(〜29年3月)
平成29年4月 自民党富山県連政務調査会副会長(〜令和3年3月)
令和3年3月  自民党富山県連組織委員長

趣味 : 仲間や家族とのバーベーキュー、料理、スポーツ鑑賞、海外ドラマ鑑賞

【歩んできた道】
🔳幼少期〜高校生

製材所を営む家に生まれた。
私の父親は、大学生の頃、祖父が他界したことから、突然、会社を継ぐことになった。経営状況は決して楽なものではなく、人脈もない中、ずいぶん苦労したらしい。そういう意味では、私の幼少期は、父親がまさに家業の立て直しに奮闘していた時期であったのだと思う。
母親も、そんな父親の家業を手伝っていた。特に、会社が、製材業から住宅建築業に事業転換を模索していた頃には、自ら2級建築士の資格を取得するため夜間の専門学校に通っていた。日中に仕事をして、夕食の準備をしてから、夜間に学校に通うのは、大変だったと思う。
一見、政治に関係のない家庭で育った私が、なぜ政治の世界にいるのか?
直接的な理由にはならないが、私の祖父は小杉町(現射水市)の町会議員をやっていたそうだ(私が生まれる前に他界)。そんな祖父のことを父親は、時々、教えてくれた。大変に人望が厚い人であったらしい。
また父親は選挙の世話が好きであった。地元の県議会選挙、町長選挙などの応援に奔走し、勝った時は、喜びを爆発させ、負けた時は、本当に落胆していた。家庭では、仕事の話をほとんどしない父親が見せてくれた意外な一面であり強く印象に残っている。
幼少の頃から高校生まで、そんな父親の姿を見てきた私の内面に、政治への関心というものが刷り込まれていたのだと思っている。

🔳大学生〜社会人

大学は、将来的には家業の建設会社を継ぐことも想像しながら、経営学の勉強をしようと東京都立大学の経済学部に進んだ。勉強もそこそこにやりながら、飲食業やコンビニ、イベント会社などでアルバイトをしたり、友人達と新しくイベントサークルを立ち上げバーベキューやドライブを楽しんだり、冬になれば、仲間たちと山にこもり、スノーボードに熱中していた。両親のおかげで、充実した大学生活を送らせてもらったと感謝している。
そして、いざ就職活動を始めるにあたり、2つの選択肢を考えた。一つは、いずれ家業を継ぐことも視野に入れながら東京の建設会社に就職すること、そしてもう一つは地元富山県に戻り就職すること。
結果としては、東京での生活を楽しむ反面、地元富山に戻り、仕事がしたいという思いが勝り、富山県庁で行政の仕事をすることに決めた。
富山県庁では、統計課という配属からスタートし、データの取扱いや分析の仕事を覚えた(ちなみに、この職場で現在の妻と出会いました)。そして、その後、ロシアのウラジオストクへの派遣留学の機会を得た。ロシアという外の世界から日本や富山を眺める機会は、国家や地方政治の役割の違いを学ぶ良い機会となり、政治に次第に関心を持っていく大きなきっかけになったと考えている。
帰国後は、広報の仕事、高齢福祉の仕事に携わった。広報課では、当時はまだ、それほど主流ではなかった県政ニュースの動画配信を始めたのが思い出。また高齢福祉の仕事は、医療や介護といった専門分野の知識を広げるという点で貴重な経験であったが、他方で、とりわけ国の監督が強い福祉行政において、地方自治体は「国の方針どおりやっていれば良い」というある種の思考停止状態に陥っており、地方政治の未来に危機感を募らせるに至った。

🔳政治の道へ

失われた20年といわれ社会全体が閉塞感に包まれ、また県職員としての仕事をしながら、地方行政の改革が必要と感じていた中、突然、県議会議員への立候補の打診がった。
2011年4月の統一地方選挙(県会議員選挙)から遡ること1年くらい前であったと思う。なぜ、私に打診があったか、未だ定かではないが、聞いた瞬間に気持ちが沸き立ったのを今でもはっきりと覚えている。すぐに「やろう」と思った。自分自身に迷いはほとんどなかった。しかし、家族にはずいぶんと反対された。当然だと思う。なぜ、安定した公務員を辞め、不安定な政治の世界に飛び込むのか?説得は半年以上に及んだ、しかし最後には立候補を許してくれた。妻や子どもたち、両親や妻の両親には本当に感謝している。
元来、強く我を通す性格ではない。とりわけ妻の強い反対にくじけそうな時もあった。そんな中で最後まで思いを貫きとおすことができたのは、当時、たまたま手にとった著書にある3つの言葉である。
【竜馬がゆく(司馬遼太郎)】の『世に生を得るは、事をなすにあり』
【男の作法(池波正太郎)】の『人は死に向かって生きている』
【スティーブ・ジョブスのスピーチ】
『もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?(中略)
他人の雑音に自分の内なる声や心、直感を打ち消されないことです。
自分の内なる声、心、直感というのは、あなたたちが本当に望んでいる姿は何か、既に知っているのです。』

そして3回の選挙戦を戦った。
特に1回目の選挙は、ほぼ知名度のない中での選挙戦。まして自民党の公認・推薦を受けずの立候補。私自身、右も左もわからない中、地域の方、同級生、所属していた消防団の先輩達に支えてもらっての選挙戦。ただただ感謝。
2回目、3回目は、自民党公認候補としての立候補。地域の皆様の温かい支えのもと連続して当選を果たさせていただいた。
そして、政治の世界に飛び込み12年が経過しようとしている。
「初心忘るべからず」という言葉があるが、「忘る」どころか、地域に暮らす人達を知り、地域の限りない底力や可能性を知れば知るほど、射水市や富山県への愛着はむしろ増すばかりである。
地域の持つ可能性を解き放つ、地域の子供たちの力を解き放つ、そして日本においても、世界においても、キラリと光るそんな射水市と富山県をつくるため、引き続き、努力を積み重ねていきたいと思う。

(令和5年1月)